「僕がプロ野球選手になれた理由」第4話

「僕がプロ野球選手になれた理由」シリーズ
スポンサーリンク

「僕がプロ野球選手になれた理由④」

 

前回(シリーズ③)のあらすじは、僕が東筑紫学園高校に入学し、この高校がどんな環境でどんな高校野球生活がスタートしたのかを紹介しました。

僕にとっての高校野球がスタート!

さて、もともと1学年先輩に2名の選手と女子マネージャーが1人いた野球部でしたが、もちろん9人いないので試合ができる状況ではなかったところに、僕たちの学年16人が入学し初めて野球部が発足し高野連に加盟する事ができたのでした。

 

そして1年の夏、初めて甲子園をかけた公式戦に臨む事になるのです。
周りのほとんどの高校はもちろん3年生や2年生が主体のチームですが、僕たちの高校は、ほとんどが1年生

 

高校生での2歳差は体格差や技術力の差は明らかでした。

 

そんな中くじ運も良く、公立高校相手に2試合には勝つことができましたがやはり3回戦となると大敗してしまいました。

その時は「1年生軍団」と、珍しい野球部の生い立ちが注目され新聞や地元のニュースなどで取り上げられました。

 

そして、あれよあれよと言う間に1年生の秋の大会が始まるのです。

 

そこでもやはり1学年上の高校生と戦うという事で、1試合は勝つものの2試合目では、乱打戦の末、延長戦で負けてしまいました。

 

これが僕たちの高校野球1年目の甲子園をかけた夏と秋の戦いの結果でした。

再び、運命の分かれ道・・・

言わずと知れた、野球はここからの季節は地獄の「冬トレ期間」に入るのです。

 

翌年4月頃に野球シーズンの始まりを告げるかのように公式戦が始まりますが、それまでの約半年は、自分自身を一回りも二回りも成長させるための辛い季節です。

 

そこで、僕の「運命の分かれ道」が訪れるのです。

 

もちろんその時の僕はまだ16歳、中学生の頃は試合で投げたこともほとんどなく、当然ピッチャーでバリバリの輝かしい成績なんかある訳もなく、右も左も分からずようやく高校野球というものを肌で感じた程度。

 

ピッチャーとはどんなものなのか?ピッチャーとしての練習の方法や考え方なんかも全く分からない手探り状態でした。

 

そんな僕の煮え切らない状況を見て「このままでは冬トレ期間を過ごしても成長が見込めないかも・・・」と、監督も苦悩していたのだと思います。

 

「このままでは勝てるピッチャーが育たない・・・」

 

「とにかくエースとして自立させないと・・・」

 

「ピッチャーとはどんな生き物なのかを叩き込まないと・・・」

 

同じ指導者の立場として考えてみると、当時の監督はこんな思いだったのではないだろうかと思います。

 

そこで監督はいろいろな人と相談をし、いろいろな手段を考え、この冬トレ期間をどうやって過ごすべきなのか?を考えて考え抜いたのでしょう。

監督にとっても勇気ある決断!

監督の幼少時代の先輩である村上さん、そして僕の両親とも話し合いをした上で、

 

ある「とっておきの策

 

にチャレンジする事を僕に提案をしてきたのです。

 

この「とっておきの策」「運命の分かれ道」については、また次回ゆっくりと紹介したいと思います。

 

ついに「僕がプロ野球選手になれた理由」の真髄に迫ってきました。

 

自分でハードルを上げすぎると「期待外れ」と思われることが怖いですが、これは紛れもない事実なのです。

 

間違いなく、僕はこの「とっておきの策」が無ければプロ野球選手になんてなれていなかったと断言できます!!

 

それでは次回、お楽しみに。

 

ちなみに添付の画像は、僕は当時寮生活をしていたのですが、母親が新聞の切り抜きをスクラップ帳に保存してくれていたものです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました